Column
Our Roots

 08 May,2015    ベース・キャンプ・ブルース / Down Town Boogie-Woogie Band
 
 名探偵明智小五郎より、怪人二十面相が好きだった。“OK牧場の決闘”ではバート・ランカスター演じる保安官ワイアット・アープよりも、カーク・ダグラスの肺病病みの飲んだくれ医師ドク・ホリデイに心惹かれた。小学校高学年の頃の話だ。正統派のヒーローよりも彼らに、社会から逸脱したより多くの“自由”を感じていたからかもしれない。
 
 中学2年になり親の付き添いなしに、初めて同い年の従兄弟と観に行ったのがDown Town Boogie-Woogie Bandのライブである。リーゼントにサングラス、宇崎竜童率いるそろいのツナギに身を包んだ世間からの“逸脱感”溢れる彼らの、70年代リアルタイムの日本語歌詞をのせたboogieは、アイドルと演歌が全盛の日本のヒットチャートと、BeatlesをきっかけにRock'n'rollへのめりこみ始めていたOGのハートを直撃した。“スモーキン・ブギ”“港のヨーコ 横浜 横須賀”などのヒットを連発して間もない時期で、客席からは、金髪、チリチリパーマのヤンキー風の女の子たちの声援も飛び交っていた。ノリのいい楽曲はもちろん、MCで宇崎が語る下積み時代のストリップ小屋の誇張されたSMショーの話など、中2のOGには十分刺激的で面白く、従兄弟と二人腹を抱えて笑った記憶がある。ライブ終了後には文化会館の通用口で出待ちして(会館が自分の学区内にあったので構造はよくわかっていた)当時流行っていた愛用の“マディソンバッグ”の裏にサインをしてもらい、学校で友達に自慢したりもした。誰かにサインをもらいに行ったのは、後にも先にもこの時一度きりだ。
 Down Town Boogie-Woogie Bandの楽曲の魅力は、宇崎夫人である作詞家の阿木燿子の力によるところが大きい。艶歌の情念を根底に感じさせる3分間のドラマの達人だ。バンドのブルーカラーの不良っぽいイメージに反して、宇崎自身は明治大学卒業後、一般企業に一旦就職、ほどなく芸能事務所のマネージャーに転身、そしてついには自分がステージに立ち始めるという異色の経歴を持つ。大学のデキシーランドJazzサークルでトランペットを吹き、メロディは浮かぶが詞が書けなかった宇崎が、同級生で後に妻となった阿木に歌詞を依頼したのが始まりで、その後このコンビの名前は、山口百恵の活躍とともに誰もが知るところとなり、日本の芸能史に一時代を刻むこととなる。シングルカットはされなかったが当時のライブで演奏されていた名曲がある。米軍キャンプ回りの経験を歌にした“ベース・キャンプ・ブルース”だ。Manish boy風のリフに乗せてドスの利いた声で宇崎が語るように歌うこの曲で、中学生のOGは映画やショービジネスに見る華やかで煌びやかなアメリカ社会の陰の部分と、日本の中のアメリカの存在を初めて意識させられたことを覚えている。この曲を聴くと今でも宇崎が演奏に入る前に語った、“日本の基地からベトナムへ送られ、二度と戻ることのなかった米兵たち”のことが頭をよぎる。最後に宇崎の体験を、見事な作品へと昇華させた阿木の歌詞を紹介して今回のコラムを終えたいと思う。
 
 
 
 外人相手に憶えたものは 不味い英語と酒の味
 いつか陽の目がみれるなら こんな暮らしも楽しいけれど
 ドラムにベース ピアノにエレキ 俺のバンドにゃ明日はない
 今夜はロックンロール・パーティーだ
 ザ・ナイト・オブ・立川 ベース・キャンプ・ブルース
 
 ジムに初めて会ったのは 滅法寒い晩だったぜ
 バーボン瓶ごと矢鱈と喰らい セントルイス・ブルースって云いながら
 涙いっぱい溜めてたぜ そこがあいつの故里さ
 今夜はこれから ブルースをJAMろうか
 ザ・ナイト・オブ・横須賀 ベース・キャンプ・ブルース
 
 ブロンド・ヘアーの写真をみせて マイ・フィアンセと云ったトム
 来年還るの約束が とうとう戻っちゃこなかった
 ジミーにポール マイクにミッキー みんな片道切符だぜ
 奴らにゴスペルソングを手向けよか
 ザ・ナイト・オブ・佐世保 ベース・キャンプ・ブルース
 
 将校クラブに入った時にゃ アイツがいるかと驚いた
 真っ紅な口紅つける訳ゃないさ 幼馴染のカワイイ女
 生まれ故里 沖縄の 変わっちゃいないぜ海の色
 今夜は故郷に 錦を飾ろうか
 ザ・ナイト・オブ・沖縄 ベース・キャンプ・ブルース
 
 ザ・ナイト・オブ・ジャパニーズ・ベース・キャンプ・ブルース
 
(OG)